相馬黒光 [歴史・人物]

明治43年、彫刻家・荻原碌山(1879-1910)は吐血し、障子や真っ赤に染めながら、その30年の生涯を閉じました。
彼の死後、「女」という彫刻が発見されたのですが、これを見た子供たちは「かあさんだ!」と叫びました。
女.jpg
荻原碌山「女」

この「かあさん」とは…
明治時代にアンビシャス・ガールと呼ばれた相馬黒光(1876-1955)。
黒光.jpg
左が黒光(インドのサリーを着て)

小学校を卒業後、ミッションスクール宮城女学校に入学したものの、1年ちょっとで自主退学、次に横浜のフェリス英和女学校(現・フェリス女学院)に入学するもこちらも退学。1895年明治女学校に転校し97年に卒業。
翌98年に養蚕事業家として活躍していた相馬愛蔵と結婚しました。嫁入り道具はオルガンと油絵。家財道具は一切持ってきませんでした。
碌山と黒光の出会いは、17歳の碌山が田んぼで写生していた時のこと。
この時から、すでに結婚していた4つ年上の黒光は碌山に芸術や文化を教え、彼の想像力と情熱をかきたてるミューズとなるのです。

碌山が彫刻家になろうと決心したのは1903年にパリに渡り、アカデミー・ジュリアンで学んでいた時のことです。ロダンの作品に出合った時でした。直接ロダンの教えを受けたこともあり、ロダンは後に「(碌山は)フランス人よりもよく理解した」と言っています。

1908年、碌山はパリから帰国します。
そして自分を芸術に進むきっかけを与えてくれた黒光との再会を果たします。
この頃、黒光は夫と共に東京に出店していました。
商売も軌道に乗り、東京での順調な生活が続くはずでした。が、そんな矢先、夫に愛人がいることが発覚します。そんな黒光を支えたのは碌山でした。
碌山は彼女の身を案じ、彼女の店の近くにアトリエを構えました。
碌山と黒光、そして黒光の夫や子供たちも含めた不思議な生活が続きます。

碌山の黒光への同情の気持ちはいつしか恋に変わります。そんな碌山に黒光は、時に甘え、時にはぐらかし…そんな態度で彼の気持ちを翻弄します。

知識も才能もあり、商才もある黒光ですが、時に碌山に甘えて見せる――黒光にはいくつもの顔が見え隠れしました。

ある時、黒光は碌山に文覚上人の話をしました。
武士・文覚は人妻との恋に悩み、夫を殺そうとしたところ、誤って愛する女性を殺めてしまい、それが原因で出家します。
話を聞いた碌山は鎌倉の成就院にその像があることを調べ、黒光を誘いました。
碌山は文覚上人の像を見て、作者自身の歴史が刻まれている、と感慨無量になったといいます。
なぜ、黒光は碌山にこの話をしたのか。そしてそれを聞いた碌山は何を感じたのか…。

そして碌山作の「文覚上人像」「デスペア」といった作品を次々作ります。
この頃、黒光は夫との子を宿していました。
どうにもならない絶望――黒光への思いをある像へ託します。
これが「女」です。

碌山の死後も彼女は本業の傍ら、サロンを営み、芸術家たちのパトロンをしながら80年の生涯を閉じます。


黒光ぐらい生涯を通じて自己の思いの儘をやってのけた人は稀であろう。すべての言動が自己中心になされている。
長男の手記より



そんな黒光の営んでいた店が今でも新宿にあります。
http://www.nakamuraya.co.jp/index.html

店の歴史はこちらから。
http://www.nakamuraya.co.jp/100/index.htm
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マイン

なんか芸術的なロマンス、って感じですね。。。^^
今の世の中ではこういうアートをやる人を育てるパトロン?的な人って、いてもあんまり理解されないんじゃないかなと思うのですが、昔の人の芸術に対する情熱というか、心意気みたいなものを感じます。
by マイン (2011-02-02 02:31) 

Tarot-Reader

昔はこういう人、けっこういたんじゃないでしょうか。というか芸術家のパトロンをやるのが金持ちのたしなみ、みたいな感じで。

逆に最近の日本はこういう部分が欠如してるから、どんどん衰退しているように思います。
私も金があればやってみたいですね、芸術家のパトロン。
by Tarot-Reader (2011-02-02 22:59) 

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